p.53 18.難病のこども支援全国ネットワーク

 確立されていない治療法、慢性症状、……難病の赤ちゃん・幼い子どもというと、すぐに◎万人に一人……など稀な事と思いがちですが、そんなことはありません。ご家族は赤ちゃん・子どもの命を守ることに必死で、その困難を訴える余裕があるはずがなく世間に声が届かないだけ。実際は、この国に20万人以上いると言われています。

 1980年、小林信秋さんの息子・大輔さんが「亜急性硬化性全脳炎(SSPE)」を発症しました。大輔さんの主治医だった二瓶健次さんの勧めもあり、小林さんは当時まだなかったSSPEの患者会(=子どもの難病であるから「親の会」)「青空の会」を発足、10家族でスタートしました。これが、すべての始まりでした。手紙の交換がやがて機関誌になり、お楽しみキャンプなどを企画したり……。

 小林さんは、大輔さんが使っていた薬が「患者が少なく採算があわない」という理由で製造中止になったとき、オーファンドラッグ(稀少疾病医薬品)の問題にも気づきました。厚労省に出向き働きかけた結果、再び製造がはじまり、やがて保険薬として認可されました。その後、1993年にはこの国でも薬事法が改正されオーファンドラッグに対する公的研究開発援助がはじまり、研究助成金の交付だけでなく、承認審査が優先されるなど、稀少病と共に生きる人に希望を与えることになります。

 また、SSPEを難病指定する請願のための署名活動も行い、これには18万筆が集まり国会で採択されました。

 数年後には、医師の小林登さんの勧めによって「SSPEに限らず難病の子どもを支援する活動」として発展し、電話相談室開設やシンポジウム開催、「親の会連絡会」発足など今のネットワークの事業が始まりました。

 日本水頭症協会を発足して間もない頃、励ましと助言をいただきお世話になっていた医師の三宅捷太さんが、この「親の会連絡会」のことを教えてくださり参加したのが、出会いです。何も分からずボーッと話を聴くばかりの私を、みなさん旧知の仲のような物腰で温かく迎えて下さり、本当にホッとしたのを覚えています。この連絡会はネットワークであり、何か話し合って採決して取り決めたりする場所ではありません。そこが、その「ゆるさ」が素晴らしく、そうあることの価値を教わりました。ただ話を聞きあう(連絡)という状況が保障されていると向かい合う相手の話に全身耳を傾けられるのです。私にとっては最初のピアカウンセリングの場でした。

 病と向き合い病とともに生きるひとりひとりの赤ちゃん・子どもたちの命を感じながらその日帰宅すると、大切な友人の赤ちゃんが誕生しそして肺の病のためすぐに亡くなったことをヤマシタに告げられました。決して忘れられない日です。

 小林信秋さんに会うと、なぜかいつもつい実家の “お父さん”と向かい合っているような気分になってしまい、グチやら思いつきやら無駄口も交えて本当にたくさん、たくさんしゃべり倒してしまい……、その度に先に進む勇気と知恵と力をもらいました。


 トッキーの誕生から家庭を回すので精一杯になり日本水頭症協会の活動が失速してからは、すっかり「親の会」も幽霊部員になってしまいましたが、また“実家に帰る気分”でふらりと訪れたくなりました。

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