p.136 54. 特別支援学級も統合教育

 この国では、かなりの人が 「統合教育」 と「インクルーシブ教育」を混同していますが、二つは全く異なるものです。

 「統合教育」「統合社会」など、統合(インテグレーション)という言葉は、分離教育や、非差別集落(居留地)、性差別など「人を分類した上で分断することを良しとせず「マイノリティを排除する仕組みという理不尽に抗うものです。

 その運動やそこから生まれた思想や政治活動の助けを借りなければ分けられてしまったであろう沢山の子どもが、分けられずに近所の皆と一緒に保育園や幼稚園、同じ小学校に入学し、同じ時間・同じ場所で子ども時代を送ることを実現できたこと、そしてそれによってその子たちの子ども時代が台無しにされずに済んだことは間違いなく、この抵抗の軌跡と「共に学び育った」という既成事実の数々なくして、現状の教育の在り方を語ることは、絶対にできません。

 しかし「統合」は飽くまで「分けられいる」ということを認め、前提にした行動です。「学童期だけでもせめて一緒に」「分ける時間を最小限にとどめる工夫を」「(教育の効果・発達保障は認めるが)共に育つ方により価値がある」など二者(障害児と健常児)に分けられてしまうこと自体を否定していません。本来分かれているそれらを限定的に「無理矢理くっつける」にはどうしたらよいか、という対抗策であり続けてきてしまいました。「統合教育を求める」という事に当初はあったであろう、最初に分かれてしまうのはなぜか、分かれてしまうと永久に分かれてしまう原因は何か、なぜそれが「共存の方法」として選択されてしまったのか、という問いかけや疑問は、もはや見受けられません。

 また、どんどん分けられ成員の多様性を失っていくことで、学校・教育が行き詰まり、子どもたちが不登校という形で排除されたり、自死やいじめという凄惨な行動に出たりすることは「二の次の問題」として、その問題に心を寄せたり向き合うことなく、そこに子どもたちを「くっつける」ことに執心してきたことにも問題を感じます。本当に子どもひとりひとりのことを考えていたのか。自分の主張を通したいために子どもを利用したのではないか。「排斥されている気の毒なひとたちに寄り添って、いい気持ちになりたかっただけ」という人も多いのではないか、と思うことも何度かありました。

 「学校内介助者」を募集すれば、当然、統合教育の中で経験を積んだ人、また統合教育に惹かれた人が集まってきます。半世紀近く運動が続けばもうそれは立派な伝統ある「文化になります。

 トッキーの学校介助者求人に応募してくれた人の中にも「ああ、これ統合ノリだな」と思われる人が結構、いました。
 例えば、学校介助をしたいと志願する人たちの中には、自らが小学校に恨みのある人は結構多い。自分を排除した学校と、その学校とはまったく別のものなのですが「自分のように排除されて嫌な思いをしている障害児のためになりたい」と恨みを晴らしに来るのです。従って障害児に都合の悪い「健常児」や「学校の先生」は敵。ファイティングポーズを取ることが「障害児の “ため” だ」と考えての態度・言動・行動は、環境を台無しにしてしまうばかりか、支援しているつもりの当人を孤立させてしまいます。

 また、フツーの小学校の先生以上に「障害児」に固定概念を抱いている人も多い。「障害児は保健室登校するものだ」と思い込んでいて、初日からそれまで具合が悪くなったとき以外、行ったことのなかった保健室に連れて行き「無理みたいだったから」と、しれっと言う人もいました。子どもたちの「じゃれあい」の間に入って「障害児を理解させよう」ともっともらしいことを言ってお説教を始める人、障害のある子の代弁をする (これが代弁ではないことは言うまでもありませんが)ていの人も。

 「うまくいってない(はずの)障害児にどこまでも寄り添う自分」に酔いしれるタイプ、「障害児を主役にしろ」といちいちアピールするモンスターペアレントみたいなタイプ、「健常児」に「障害児」への思いやりや友情や、介助の義務を求めるタイプ、「自分がいなければ君はやっていけない」という状態に仕向けるタイプ、……。

 そういう学校介助人(申し訳ないけれどその都度、試用期間中にすぐに辞めていただいた)志望・経験者を見ると、私が「学校」「教育」という事と全く離れていた過去の時代の学校の様子がどんなだったか想像がつくような気がしました。

 また、どう考えても分離教育の中にある特別支援教室や副籍制度を「統合教育」だと見なし「障害のある子が受けられる最良の教育サービス」と見なす人が増えていることを嘆く人もいますが、私は、その嘆きは100%理解出来るものの、それがちっとも不思議ではありません。統合教育は常に分離教育と共に歩んで来たのだから。


 原点は「最初から分けてはいけない」というところにあったはずです!「インクルージョン」という言葉ができる以前にそこにあったはずです。


 差別・排除に抗ってきた気持ちや行動を障害のある人(子)だけでなく全ての人(子)たちに心を寄せて共に感じあうこと、そして、そこで培われたアイデアを語り合い、分かち合うことは、学校(環境)が万人のために生まれ変わるための何よりの糧となるはずです。運動が「インクルーシブ教育」を求める方向に転換することを、切に、切に、切に望みます。

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