p.249 89. 尊厳死法案

 これは、障害のある(かも知れない)胎児の中絶と同じく「生の選択」です。二大「生の選択」です。なぜなら「死の選択」をする人は、まだ生きているからです。死んでしまった人に「選択」はできませんから。

 障害のある(かも知れない)胎児の中絶は、母体に大きなリスクを負うという理由を除いてなぜその選択をするかと言えば、父母体が少ない情報の中で短期間にどういうわけか「その子が “尊厳のある” 生を生きるのは不可能だ」という結論にいたるからです。

 医師から死期の宣告や心身の激変による恐怖や痛みなどさまざまなことに直面したとき「自分はもはや “尊厳を持って” 生きられない。死にたい」と悲観しての自死のうち、その人がすでに入院していて医療の管理下にある場合、自死の手段がないのでそれを医療関係者や家族が幇助して行う自死のことだけが「尊厳死」と呼んでいるようです。しかし違いは誰が手を下すのか、ということですから、そういう自死全てを指して「尊厳を保つための選択である」と主張していることになります。どういう状態を指して「尊厳がある」と感じるのかは一人一人違っていますから、そう感じる人がいてもおかしくないし自由ですが、分からないのは、そのための法律を作るということ。どういうことなのか私にはさっぱり分かりません。「死にたい」という気持ちになる人がいて「死んでしまう」ことがあるのは事実だけれど、法律は生きている人が使うものですよね?こうなったら尊厳がない、死んだも同然だ(殺す手伝いをしてもいい=殺していい)という基準を作るのは誰のため?……「苦しむのを見ていたくない」「楽にしてあげたい」ということも含めて「死なせたい・殺したい」という、生きている一部の人の都合によって(その気持ちを利用して医療保険の対費用効果を上げるために!)勝手に作られようとしているのは間違いないですよね。

 こんな「判定」をひとたび許してしまったら「死んだも同然の無駄な生がある」「自分は生かされる価値があるから殺されなくてすんでいる」「有益な生と無益な生がある」という誤った妄想——優生思想を人々の心の中に明確に植え付られ、あっという間に固定化してしまいます。世論によって生命を脅かされる人、排除される人が跡をたたなくなります。

 「嘔吐やむくみ、呼吸困難の症状を和らげる効果をもたらす終末期の脱水や低栄養は、緩和ケアとして有効である。だから終末期のケアに経管栄養や点滴、そのための検査も不要だ」という主張があります。日々現場で「医療は虐待である」ことを感じ「自然な死」を求める医療者ならではの貴重な視点ですし緩和ケアとして有効なのか今後しかるべく精査をしていく問題だと思います。しかし、そこに「どういう生に尊厳があるか」ということを持ち込むのはお門違いもいいところです。

 胃ろうや経管栄養で食事をしたり、人工呼吸器をつけて十分な空気を吸って、ともに生きる人たち、その人にひとりでも出会っているなら「自然死」を主張する医療者が、持論を通そうとするあまり、そういう「キーワード」や「尊厳」をちらつかせることはなくなるでしょう。出会い、聞きあい、感じあいたい。制度の奴隷ではなく、ひとりひとり等しく人間として。


尊厳死の法案を認めない市民の会ホームページには、尊厳死法案について、2012年の法案や議員連盟など詳しく書かれています。
こちらのURLで読むことができます。

http://mitomenai.org

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