p.177 64. 日本型インクルーシブ教育


 国際法や外圧によって国内法や慣例を調整するとき、よく頭に着くのが「日本型」という言葉です。「言い訳」や「解釈」を求めるための言葉という印象が強く、どちらかと言うと気分のよくない言葉ですが、自らあらゆる文化や民族意識に公平であるように最大限の調整は行っているものの、国際社会を律する国際連合のイニシアチブを取っているのが第二次世界大戦の戦“勝”国と連盟国であることを考え、その前後のヨーロッパの国々による植民地政策(優生思想やそれに基づく宣教活動も含む)の大禍とそれが元凶となっている現代の紛争の数々を思えば、受け取るそれぞれの場所(法に基づく自治の承認がある限り国家……というべきなのでしょうが、そこに暮らすあらゆる人々と大小問わず沢山の文化や土地について指し、それは必ずしも国家という単位で示すことはできないので場所、とします)の側が、それをそのまま受け取らず、いまその場所にある大切なもの・ことが失われるような影響はないか、また意見に耳を傾けるべき少数の成員の声を無視していないか、という観点から検討し「これが  “ウチ流”  です」という態度を取ること自体は大切なことだと思います。

 しかし、残念ながら「日本型インクルーシブ教育」の場合、これは「インクルーシブ教育である」と認めるべきではない代物と言わざるを得ません。「分ける」ことが前提になっている限り「インクルーシブ」と呼ぶ事はできません。 

 平成24(2016)年夏に公表された中央教育審議会初等中等教育分科会による「共生社会の形成に向けた インクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告)は、この「日本型インクルーシブ教育」についてかなり具体的に書かれたもので、何だか気味が悪いほど評価する人が多いのですが、私は、これを読んだときには、本当に、本当に失望しました。
 
 失望その一。これは「障害のある子のためのもの」として示されています。ひとことで言うと「特別支援学校・学級(特別支援教育)」は「障害のある子の学習権の確保のため」存在する、だからインクルーシブ教育の実現のために特別支援教育の一層の推進が必要だ、ということを伝えるための内容です。
 ですから、「学習権を奪われている子たちのために環境(学校・教育)のほうがどう変わるか」という視点がありません。かろうじて「(学習権は保障しないが)同じ場で学ぶための調整」として合理的配慮を紹介しています。学習権とは発達保障のことを国際法に整合するように言葉を言いかえたと考えるとその態度は「配慮はダンピングのために行う」となります。つまり「障害のある子が普通学級で同じ学びの機会を得ることは(その医療モデルによる障害ゆえ)不可能」ということを大前提としているのです。これではいつまでも「不可能を可能にする(社会モデルによる障害を解消する)にはどうしたらいいか」という問題提起にいたりません。


 そもそもインクルーシブ教育もその先の共生社会も、断じて障害のある子のためのものではありません。障害、信仰はじめ文化、貧困、個性などあらゆる違いによってこれまで排除された存在の人権回復・行使(これは “益” と呼ぶことはできませんよね)を実現する手立てではありますが、全ての子どもたちの教育とその先の社会(全ての成員)のためのものなのです。この報告書に「なぜ現状では不可能なのか」という最初の問いがなくても「不可能です」と言われても違和感を感じない人が多いのは、そのそもそもの大前提が抜けているからです。

 「障害のある人とふれあう」「交流」「相互理解」など、そもそも分けられた存在であることを前提にし障害のある人を「客体」として描く言葉が頻繁に登場するのも、これが「障害のある子のため」にと、障害のない人によって書かれたものである証拠です。このように、まず、目的と書かれかたさえ間違っている代物なのです。

 失望その二。このそもそもの大前提は、ICF(p.97・ 脚注42参照)の考え方……つまり「社会モデル」からつながる考え方です。この重要な考え方も「合理的配慮」のところで「環境整備の時、考慮にいれるべき」と、かなり限定的に紹介しているに留まりますし、むしろ医療モデルでいう処の障害に着目した「医療・(障害の)専門家との連携」強化やそのための人材育成の必要性が、繰り返し強調されている始末です。


 また、あたかも別の場所で別の教材・教師を使えば「学習権が得られる」かのような書きぶりですが、その検証や、検証・精査の機会がないことに対する問題意識も、もちろん全くありません。

 これは「同じ場所で学ぶことの追求(中盤から目指す、とやや消極的な表現になる)」という言葉の後に必ず添えられている「自立と社会参加のために “多様な学びの場” が必要」という言葉についても同じことです。この言葉がいかにいい加減か実感している人の中には「一度、通常学級で学び育った経験を持ち、途中から転学したかつての子どもたちの親がいます。

 平成18(2006)年の学校教育法一部改正で、発達障害と診断された子ども達がごっそり新設の特別支援学級や学校に転学・通級することになりました。その最初の子どもたちは新社会人の年頃ですが、ここ23年、その保護者たちから「親の私も含め、その“障害像”を学び、対人とかコミュニケーションとか対処法をひたすら学んだ。勉強自体は落ち着いてできたと思う。でも、社会に出る(出た)今、それが何の役に立つの?という感じ。要は相手。結局社会はもといた学校と同じ。普通の学校でうまくやって来た人が社会では偉い人になっているんだから。差別されるし、障害を理解させろ、啓発しろなんて言ったって、言葉で言われて理解できる位なら、皆とっくにしているよね?」というような話を聞くようになりました。「こんなことなら、ずっと“現実の世界”にいた方が楽だったかなって気がすることもある。周りの子も大人になって変わっていってご近所も一緒にいれば慣れてあきらめてくれたかも、そうすれば別に理解される必要なんてない。そうだ、と知っててもらえば」という人も。こういうリアルな声を「今度こそ」真摯に受け止めようという気は毛頭ないようです。

 副籍制度など居住地交流について「交流・共同学習実施=心のバリアフリーの達成」などと、あかたも達成できているかのように書いているのも同様のまやかしです。


 失望その三。特別支援教育をどうしても存続したいがための詭弁も、あからさますぎてちょっと恥ずかしくなるほど随所に登場します。例えば、米国・英国「特別な指導」を受けている児童の割合が多い、日本はそれに比べて少ない。普通学級で学んでいるに違いない、早急に対応を……としていますが、その対応とは、環境の方を調整することではなく、別の場所で学ぶ・別のカリキュラムを採用することは明らかです。加えて、日本と同率か日本より低いまたは全ての子どもが同じ場で学んでいる国とその事情については紹介していないのがおかしい。私は、米国や英国について他の国より全ての事象について優れていて目標にしたいとは思いません。なんで?とちょっと滑稽な感じさえします。“エリート教育”を提唱している人たちの優生思想丸出しの持論を聞くとき、よく感じる可笑しさです。

 外部との連携について書かれた部分に「親の会」は登場するのに「障害当事者団体」とはひとことも書かれていないのも気に入りませんね。「親の会」は「療育・特別支援教育の伝道師」だらけですから。

 結局、特別支援学校・学級(特別支援教育)ありきなのです。「特別支援学校の在籍者が増えている」という問題提起には「計画的な整備や障害種に対する柔軟な対応」としています。「同じ場所で学ぶことの追求」をするというなら、こういう発想にはならないでしょう。普通に考えれば「現状の環境をどう変えから同じ場所で学ぶ子が増え、特別支援学校に安易に在籍する子が減るだろう?」という問いになるでしょう。

 就学の制度を見直しにしてもそうです。より柔軟にする、と書かれているけれど、その先の環境の調整の約束についてはひとことも触れていません。これでは、奇跡的に保護者はじめ多方面の専門家の見解を十分に吸って総合的に判断できるようになったとして、その見解自体が変わるとは思えません。これでは意味がありません。


 「同じ場で学ぶという意味では平等であるが、実際に学習活動に参加できていなければ、子どもには、健全な発達や適切な教育のための機会を平等に与えることにはならず、そのことが、将来、その子どもか社会参加することを難しくする可能性がある」と、あたかも別の場所・カリキュラムなら教育のための機会を十分に得られるかのような前置きした上で、財政負担について触れる、というセットの文章が繰り返し登場します。「意味あることではないかも知れない、問題をはらんでいるかもしれない、そんな危ういことなんだよ」と言っておき「そんなことには、おいそれとお金をかけられないですよねえ」と結んでいるのです。ここは一番、腹立たしかった。

 他にもツッコミどころが満載の「報告」ですが、読んでいただければ分かることなのでこの辺にしておきます。



中央教育審議会初等中等教育分科会による※共生社会の形成に向けた インクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告)
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