「療育(educaitional
treatment)」という言葉をこの国で最初に使ったのは高木憲次さんという東京大学の整形外科医のようです。1920年代、第一次世界大戦で敗戦したドイツに100ほどあったクリュッペルハイムという身体障害のある子どもを保護(収容)・治療する施設を訪れて感銘を受け、当時「一室に閉じこめられ、兄弟の通学姿を羨みつつ、一家の厄介者として扱われ、教育もされず悲惨な境遇にある日本の肢体不自由児(論文「クリュッペルハイムに就いて」から引用)」を探し出し、同様の施設を作って救いたいと思い立ち、昭和17(1942)年、東京整肢療護園(現・心身障害児医療療育総合センター)を開設したのが、療育センター(療育施設)の始まりです。
高木さんは療育施設の必要性を訴えた医学誌のコラムで「クリュッペルハイムは整形外科医(医療)が主導だったが、それだけでは足りない。教育や社会参加の道筋を与えることにまで医学界は責任を負うべきだ」と主張しました。現在も継承されている「総合リハビリテーション」の発想です。手足が不自由だったり無かったりすることを指した蔑称に変わるものとして「肢体不自由」という言葉を作ったのも彼です。
「療育施設(当時はイコール肢体不自由児施設)」がこの国で最初に法制度として位置づけられたのは、第二次世界大戦後に制定された沢山の新しい法律の中の一つ、児童福祉法です。第43条の3に「肢体不自由児施設は上肢、下肢または体幹の不自由な児童を治療するとともに、独立自活に必要な知識技術を与えることを目的とする施設とする」と定められました。
欧米から輸入された「very early treatment (0歳からの療育、超早期療育)」が注目され、その求めに応じる形で親子で通う通園施設が現れたのは昭和40(1965)年ころ。現在、全国津々浦々に設置されている療育センター(療育園)のスタイルです。私がハルと通ったのもこのころできたものでした。こういった施設内に整形外科だけではなく小児科も設けられるようになったのも同時期だったようです。
さて、高木さんの「療育」の対象は、知的障害(と呼ばれているもの)がない身体障害のある子どもに限られていました。対象外だった子どもたちは「重症心身障害児」、(身体障害のない子どもは)「動く重症児(何て言いようでしょうね……)」などと呼ばれ、法制定をきっかけに「制度の谷間に取り残された存在」として顕在化しました。これに対して「社会福祉の父」と呼ばれ「この子らを世の光に」という言葉で有名な糸賀一雄さんや、精神科医の谷口憲郎さんなどが、知的障害児施設を創設し重い知的障害がある子どもの療育を始めました。
知的障害(と呼ばれているもの)のある子については、それよりはるか以前の明治時代から特別に用意された教育を施そうという試みはありました。
明治24(1891)年、立教女学院の教頭だった石井亮一さんが、濃尾大震災で被災した孤児を人身売買業者の手から保護しました。その中に知的障害のある子どもが数人含まれていたことから「障害のある子にどう教育を授けたらいいか」学ぼうと、米国で「知的障害児養護施設」を見学し、また当時障害児教育界の権威だったエドアール・セガン氏に師事しました。そして帰国後、知的障害(と呼ばれているもの)のある子を教育する滝野川学園を創設したのです。
いずれにしても、これらはすべて私財によって設けられ、民間による運営でした。
昭和38(1963)年、作家の水上勉さんが雑誌「中央公論」に掲載した「拝啓池田総理大臣殿」という手紙が反響を呼んだのをきっかけに、厚生省から相次いで「重症心身障害児(者)」について通達が出され、昭和42(1967)年に児童福祉法が改正されたことにより、「重症心身障害児施設」が制度化しました。ただし、ここでも身体障害のない子どもは対象外。ですから、その保護(収容)と療育については個々の施設の采配によって行われてきました。
このとき「再度、法の狭間に置き去りにされた」という「動く重症児」ってどんな子どもたちなのでしょう。
昭和45(1971)年の中央児童福祉審議会によると「知的障害であって、著しい異常行動を有するもの。知的障害以外の精神障害であって、著しい異常行動を有するもの」ということです。
これを読むと、私はどうしても、平成16(2004)年の「発達障害者支援法」施行のころを思い出してしまいます。そもそもここでいう「異常行動」とは実は「問題(迷惑な)行動」、当人ではなく周囲の側に不都合があることです。とっさにひとを突き飛ばしてしまう、ものを壊してしまう、集中できなくて動き回ってしまう、熱中して周囲の働きかけに応じない、……などなど。当人にとってはすべて理由があることなのですがそれが分かりにくいことから「理由もなく=異常」ということになっています。
当時の(当人ではなく)周囲の、家族の、「見捨てられ置き去りにされた」という気持ちと保護(特別な処遇)を求める気持ちが50年近くくすぶり続けた後の「悲願達成」という印象を「発達障害者支援法」施行そして特別支援教育が提案された頃、それを疑いもなく歓迎する発達障害のある子の親たちの様子に感じてしまったのです。
さて、こうして今では「肢体不自由・重度心身障害児」「知的障害児」「情緒障害・発達障害児」など障害種別のラベルつきで、おびただしい量の療育施設が、赤ちゃんが不安を抱えた親に連れられてくるのを待ち構える万全の体制が整ったというわけです。
0 件のコメント:
コメントを投稿