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「ビバ!インクルージョン〜私が療育・特別支援教育の伝道師にならなかったワケ〜(現代書館)」は専門書ではなく、本来、脚注が不要な気軽にお読みいただけるエッセイですが、一般にはなじみのない用語やご参考にしていただきたいホームページのURLが頻繁に出てくるため、QRコードで「脚注+つぶやき」を用意することになりました。

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最新更新日
H.28(2016)6.22  p.154  57. 「公的介助制度」誤植を訂正しました。

p.10 1. 療育センター

 「療育(educaitional treatment)」という言葉をこの国で最初に使ったのは高木憲次さんという東京大学の整形外科医のようです。1920年代、第一次世界大戦で敗戦したドイツに100ほどあったクリュッペルハイムという身体障害のある子どもを保護(収容)・治療する施設を訪れて感銘を受け、当時「一室に閉じこめられ、兄弟の通学姿を羨みつつ、一家の厄介者として扱われ、教育もされず悲惨な境遇にある日本の肢体不自由児(論文「クリュッペルハイムに就いて」から引用)」を探し出し、同様の施設を作って救いたいと思い立ち、昭和171942)年、東京整肢療護園(現・心身障害児医療療育総合センター)を開設したのが、療育センター(療育施設)の始まりです。

 高木さんは療育施設の必要性を訴えた医学誌のコラムで「クリュッペルハイムは整形外科医(医療)が主導だったが、それだけでは足りない。教育や社会参加の道筋を与えることにまで医学界は責任を負うべきだ」と主張しました。現在も継承されている「総合リハビリテーション」の発想です。手足が不自由だったり無かったりすることを指した蔑称に変わるものとして「肢体不自由」という言葉を作ったのも彼です。

 「療育施設(当時はイコール肢体不自由児施設)」がこの国で最初に法制度として位置づけられたのは、第二次世界大戦後に制定された沢山の新しい法律の中の一つ、児童福祉法です。第43条の3に「肢体不自由児施設は上肢、下肢または体幹の不自由な児童を治療するとともに、独立自活に必要な知識技術を与えることを目的とする施設とする」と定められました。

 欧米から輸入された「very early treatment 0歳からの療育、超早期療育)」が注目され、その求めに応じる形で親子で通う通園施設が現れたのは昭和401965)年ころ。現在、全国津々浦々に設置されている療育センター(療育園)のスタイルです。私がハルと通ったのもこのころできたものでした。こういった施設内に整形外科だけではなく小児科も設けられるようになったのも同時期だったようです。
  
 さて、高木さんの「療育」の対象は、知的障害(と呼ばれているもの)がない身体障害のある子どもに限られていました。対象外だった子どもたちは「重症心身障害児」、(身体障害のない子どもは)「動く重症児(何て言いようでしょうね……)」などと呼ばれ、法制定をきっかけに「制度の谷間に取り残された存在として顕在化しました。これに対して「社会福祉の父」と呼ばれ「この子らを世の光に」という言葉で有名な糸賀一雄さんや、精神科医の谷口憲郎さんなどが、知的障害児施設を創設し重い知的障害がある子どもの療育を始めました。

 知的障害(と呼ばれているもの)のある子については、それよりはるか以前の明治時代から特別に用意された教育を施そうという試みはありました。
 明治241891)年、立教女学院の教頭だった石井亮一さんが、濃尾大震災で被災した孤児を人身売買業者の手から保護しました。その中に知的障害のある子どもが数人含まれていたことから「障害のある子にどう教育を授けたらいいか」学ぼうと、米国で「知的障害児養護施設」を見学し、また当時障害児教育界の権威だったエドアール・セガン氏に師事しました。そして帰国後、知的障害(と呼ばれているもの)のある子を教育する滝野川学園を創設したのです。
 いずれにしても、これらはすべて私財によって設けられ、民間による運営でした。

 昭和381963)年、作家の水上勉さんが雑誌「中央公論」に掲載した「拝啓池田総理大臣殿」という手紙が反響を呼んだのをきっかけに、厚生省から相次いで「重症心身障害児(者)」について通達が出され、昭和421967)年に児童福祉法が改正されたことにより、「重症心身障害児施設」が制度化しました。ただし、ここでも身体障害のない子どもは対象外。ですから、その保護(収容)と療育については個々の施設の采配によって行われてきました。


 このとき「再度、法の狭間に置き去りにされたという「動く重症児」ってどんな子どもたちなのでしょう。
 昭和451971)年の中央児童福祉審議会によると「知的障害であって、著しい異常行動を有するもの。知的障害以外の精神障害であって、著しい異常行動を有するもの」ということです。
 これを読むと、私はどうしても、平成162004)年の「発達障害者支援法」施行のころを思い出してしまいます。そもそもここでいう「異常行動とは実は「問題(迷惑な)行動」、当人ではなく周囲の側に不都合があることです。とっさにひとを突き飛ばしてしまう、ものを壊してしまう、集中できなくて動き回ってしまう、熱中して周囲の働きかけに応じない、……などなど。当人にとってはすべて理由があることなのですがそれが分かりにくいことから「理由もなく=異常」ということになっています。

 当時の(当人ではなく)周囲の、家族の、「見捨てられ置き去りにされた」という気持ちと保護(特別な処遇)を求める気持ちが50年近くくすぶり続けた後の「悲願達成」という印象を「発達障害者支援法」施行そして特別支援教育が提案された頃、それを疑いもなく歓迎する発達障害のある子の親たちの様子に感じてしまったのです。

 さて、こうして今では「肢体不自由・重度心身障害児」「知的障害児」「情緒障害・発達障害児」など障害種別のラベルつきで、おびただしい量の療育施設が、赤ちゃんが不安を抱えた親に連れられてくるのを待ち構える万全の体制が整ったというわけです。

p.16 2.機能訓練

 ハルが入学した小学校(心障学級/現・特別支援学級)では、障害を軽減するためにと授業外に、理学療法士や作業療法士、言語聴覚士など各種療法の指導を受ける時間のことがこう呼ばれていました。

 障害のある子の周囲では、訓練とか指導とかものものしい言葉が、医療機関に限らず日常生活の中で頻繁に登場します(いつも連想するのは「特殊レンジャー部隊」です)。その後入学した都立特別支援学校では、それに相当する時間は「自立活動」と呼ばれていました。旧態依然の「障害者の自立観」がよく現れている受け入れがたい呼称です。


 まず、主な療法の内容を、私なりの理解の範囲でざっと説明します。

理学療法(physical therapy)……略称でPT(ピーティー)と呼ばれる。歩く・立つ・座る、など日常生活動作に必要な身体機能の回復(獲得)が目的。赤ちゃんや子どもの場合、「発達のモデル」として決まった身体機能獲得の順路が定められており、その地点を通過していない場合「そこで停滞している=発達遅滞」と見なされ、その獲得を促すための手立てを、獲得するまで施し続ける。手立てとは、例えば腹這いで首を持ち上げない子には「腹這いの姿勢をとらせて、首を持ち上げやすいよう胸の下にクッションを挟み、モチベーションをあげるために好きな玩具や絵本をその前に置き、首を上げるように促す」。
加療以外の役割としては、その子の身体の状況にあわせた車いすを作るとき、処方する整形外科医に座位保持(シーティング)や日常生活動作上欠かせない装置を提案したりすることもある。

作業療法(occupational therapy)……略称でOT(オーティー)と呼ばれる。つかむ・押す・渡す、など日常生活作業に必要な身体機能の回復(獲得)が目的。子どもの場合でもPTのように確固とした発達のモデルはないし、所作そのものにもスタンダードは求めず、個別の状況を測って対処する。自助具(その人の不自由を補い作業を容易にする生活上便利な用具)などを提案したり作ったりするのも職務。
しかし、目標とする到達点は飽くまで「作業(所作)を援助なく単独で行えるようになることが改善」というところに設定してあるので、子どもの場合、その評価に重きが置かれ、その手立てとしてしばしば訓練的なシチュエーションが設定される。例えば、なかなか物に手を伸ばさない子どもには「暗闇の中、ピカピカ光り音をたてる玩具にスポットライトを照らし、声をかけてそちらに注意を向け手を出すように促す」。

言語聴覚士(speech-language-hearing therapy)……略称でST(エスティー)と呼ばれる。しゃべる・食べる、の二つの口腔機能の回復(獲得)または代替手段の獲得が目的。子どもや赤ちゃんの場合、食べる(呑み込む、噛む、歯を磨く)ことについては、歯科口腔科の医師と協働して「摂食指導」という枠で家族に日常生活上のアドバイスをする。「しゃべることについては、その遅れが知的障害(と呼ばれるもの)のためなのか、聴覚障害のために自らの声をフィードバックするのが不自由な状況が妨げになっているのかを測り(聴覚障害がなければ知的障害に決定)、それぞれ別の手立てで指導する。重度重複障害なら摂食指導、知的障害ならコミュニケーション手段獲得指導、聴覚障害なら(手話ではなく)構音(口話)指導、という振りわけ。

 これらの療法については療法士になるために国家資格が必要です。平成7(1999)年のゴールドプラン21制定以来、高齢の方対象のデイサービス施設など活躍の場が増えたことで社会の認知度が一気に増しました。今や看護師や薬剤師のようなコ・メディカルとして認識されるようになっています。



 療育センターでは、理学療法や作業療法、言語療法などはすべてリハビリテーション(リハビリ)と呼ばれていましたが、内容は全く同じ。一説によると、医師の監督・指導のもと医療機関で行われるのがリハビリで、それ以外の場合は機能訓練と区別しているとか。ちなみにリハビリテーションというのは、日本語にすれば「更生」。アルファベットにしてしまえば印象がソフトになるとばかりあまり目にしなくなりましたが、今でも「身体障害者更生医療」とか「更生相談窓口」とか正式な文書の中で使われています。リハビリテーションという言葉は、もともとキリスト教を破門された人(その文化においては人間ではない者という烙印を押された人)が、再び(リ)「人間である(ハビリテーション)」と認められることを言いました。ジャンヌダルクやガリレオを語る時に出てくる言葉です。子どもや赤ちゃんは「ハビリテーション」と呼ぶべきという人もいます。しかし、そう考えると「障害のある子はまだ人間ではないと言いたいのか?」とますます気分が悪くなります。

p.21 3.障害児枠

 子どものデイケア(保育園や学童保育など)界ではおなじみの制度です。

 定員の枠外に「障害児枠」が設定されていて障害のある子は優先して入ることができる制度と思っている人が多いのですが、それは間違い。
 「両親が就労などの理由で日中保育に欠け」ていなくても障害のある子だったら入れるという誤解さえありますがこれももちろん間違い。

 飽くまで定員の枠内に「この園には障害のある子が◎人まで入ってもよい」という人数を設定してあるというもので、そこにたまたま沢山の障害のある子が入ってしまった、という事態を避けるための方策なのです。つまり、むしろ障害のある子が入園できる数を制限する、場合によっては、障害があるゆえに入園を断ることができるための仕組みなのです。


 今ではそのことについては大きな問題を感じずにはおれませんが、はじめてこの言葉を聞いた時の私の印象は「障害のある子が普通の社会資源を利用するのってもう世間的には当たり前のことになってんのね」という安堵感、どちらかというと好意でした。電車のホームの電光掲示板に「ベビーカーや車いすをご利用のかたはホームの傾斜にご注意ください」なんて出ると、昔は電車に乗ろうとするたびにビックリされてひと悶着あったものなのにね……と同じような心境で安心してしまい「注意しろって前にホーム柵早く設置しろよ!」とツッこむ気持ちがヘナーと萎えてしまう……それに似ています。私は甘い。

p.25 4.小規模住宅改修費の助成


 障害のある人がストレスなく生活するために家の改修が必要な場合、その費用の一部を
自治体が助成する住宅改修助成制度があります(介護保険にも同様の制度があります)。

 自治体ごとに助成費用の上限や内容、対象となるひとの条件が異なりますが、だいたい似たり寄ったりのようです。私が住むM区の場合ですと「手すり、段差解消、床材等変更、扉取替、洋式便器等への取替及びそれらに付帯する工事」については小規模住宅改修、それ以外の改修は中規模住宅改修、天井走行装置や階段昇降機などは屋内移動設備設置と3つの枠に分かれており、対象は学齢期から64歳まで(65歳以降は介護保険適用)となっています。


 この国では、賃貸物件の内装を借りた側が行うことはほとんどの場合、禁止されていますが、家(や部屋)を賃貸している場合でも、あきらめないで大家さんに相談することを勧めています。「退去時の現況復帰」を条件に了承してくれる可能性は十分あります。私たちの大家さんも快諾してくれました。

p.25 5.国際福祉機器展

 毎年秋、東京ビッグサイトで開催される福祉関連機器の見本市。

 1960年代に「保障よりも働くチャンスを」と唱え、日本アビリティーズ協会を創設した伊東弘泰さんが、海外の福祉用品メーカーと交渉した後、厚生省の依頼を受けて昭和491974)年、「第一回社会福祉施設の近代化展」を開催したのがはじまりです。海外から講師を招いて各種講演なども行われます。独国で開催されるREHACARE、米国で開催されるMEDTRADEと並び、世界三大福祉機器展と言われています。海外の見本市は業界関係者だけが対象だったり有料だったりするのですが、この見本市は、福祉関連事業者だけでなく、障害のある当事者はもちろん一般・個人に開放され、ユーザーとの出会いの場になっているところが素晴らしいです。……が、以前は、自助具をオーダーメイドしている小さな会社や、時には怪しげな(?)ものを出展するブースもあり面白かったのですが、ここ数年は、確実に企業が企業に向けて大きな商品をプレゼンするという産業色が強くなり、また「介護・介助負担の軽減」という視点が全面に押し出されているのがとても残念。

※下記のURLに開催日程や出展予定などが掲載されています。↓
国際福祉機器展ホームページ

p.25 6.日常生活用品

 自治体(市区町村)の行う地域生活事業のうちの必須事業として、国が規定しています。車いすなど医師が処方するもの以外の、日常生活を送る上で必要な物品を、自治体が支給するというもの。自治体によって、自己負担額や対象者が異なります。
 
内容については、具体例も含め下記のURLに詳しく書かれています。↓

厚生労働省「日常生活用具給付等事業の概要」



 気になるのは、医師が処方するのではない「生活上必要な物品」であるにも関わらず、対象者の難病患者について「政令に定める疾病に限る」とされていること。それ以外の疾病の人が、まったく同じ状況であっても、その用具をどんなに必要としていても、支給されないのです。対象の症病名を増やす努力より症病に関わらず状況に応じた支援に転換すべきです。どんなに症病名を増やしても絶対に全てにはならないのですから。

p.25 7.ユニバーサル(多目的)シート

 折り畳める大人の身長に対応するベッド。TOTOとINAXの製品をよく見かけます。支えても立つ姿勢を保てない人の場合(トッキーはそうです)、ズボンを脱ぐ動作は寝転がってするしか方法がありません。また、トイレに座る姿勢を保てなかったり、紙パンツを交換するときも寝転がります。また、オストメイトのかたが、パウチ交換に必要な小物を置いたり腰掛けたりするのにも便利だという話も聞いたことがあります。


多機能ベッド、大人用ベッドなどとも呼ばれる。
広げたところ。長さは標準170センチ。新設のカフェは多目的トイレを採用し
中にはユニバーサル(多目的)シートを設置してくれる所も増えた。
 
折り畳んだところ。長辺に折り畳むタイプもある。
 設置に十分な面積があるトイレが多いのになかなか普及しないのは、路上生活をするかたが寒さと疲れに堪えかねてユニバーサルシートで仮眠をとるため、結果として占拠してしまう怖れから設置を見合わせる、ということのようです。最近、広場や公園のベンチにド真ん中に肘あてがついた(寝転がれない)タイプの物が増えたも同じ理由からだと思われます。そのベンチを見ると本当にやりきれなくなります。疲労と睡魔で倒れる寸前の人がそのベンチを前に感じる戸惑いと絶望感。透明人間になった、つまみ出された、心を殺されたような排除の場面に出くわし面食らう感覚。とてもリアルです。排除は解決の方法にできないという事も身にしみて分かっています。私たちは同じ人間として全員つながっているのです。
 

多目的トイレの標識やドアには、設備の内容が
ピクトグラムで示されていることが多い。
一番右が、ユニバーサル(多目的)シートのピクトグラム。
占拠することがないように、駅員の対処が書かれている。

p.26 8.介護の社会化

 「介護の社会化」という考え方が社会に一気に浸透したきっかけは、間違いなく平成122000)年の「介護保険」の登場でした。
 この国が本格的に高齢化社会に備えた「対策」を模索しはじめたのは1990年代初頭です。平成元(1989)年に高齢者保健福祉推進10カ年戦略「ゴールドプラン」が策定されホームヘルパーの養成や特別養護老人ホーム・短期入所など施設の緊急整備、自治体による在宅福祉対策の実施など具体策が掲げられました。このプランは5年後に高齢者保健福祉計画「新・ゴールドプラン」としてより在宅介護支援に力を入れる方向で全面的に改訂され「介護保険制度」の実施を前提として、それに必要なヘルパーや訪問看護ステーションの設置数が具体的に示されました。
 介護保険制度開始の前年、新たに「ゴールドプラン21」が示され高齢のかたが生涯「活き活きと過ごすための社会や地域による支えあいが強調されます。グループホームの設置も初めて推奨されました。このとき「家族介護には無理があった。しかし安易に施設入所を勧め、それまでの生活をあきらめてはいけない。高齢者介護の問題は地域・社会全体で支えましょう」という啓蒙が一気に進んだのです。

 この3つのプラン策定の流れを見れば、「思ったより急激に高齢者が増えそう。施設整備にお金がかかり過ぎる。在宅のままそれを支えるという方向に転換しよう」という思惑があったことは間違いないと思いますが「家族の責任」というこの国の社会(文化)の常識は少なからず変化し、個人が負わされていた目に見えない重圧が随分と軽くなり、少なくとも立ち止まって常識を疑い、モノ申せる雰囲気になるには効果絶大でした。

p.28 9.介助協力


 動作のため介助を必要とする人がその介助動作に協力するとは?

 介護保険制度導入からこっち、障害のある人の周囲にいる支援者・機関のみならず、世間一般でも使われるようになったおかしな言葉の代表です。
 介護保険制度のそもそもの目的をよくよく思い返せば、その制度で助けようとしていた対象はその介護を一手に引き受けていた家族であり、高齢者その人ではありませんでした。

 障害のある子どもは未だに「障害を軽減・治すために機能訓練(リハビリ)を頑張って努力しろ」と言われ続けていますが、どうして努力しなくてはならないかと問えば「ご本人の生活の質の向上のため」という答えが返って来るでしょう。でも「(障害を軽くして介助負担を減らそうとしてくれて)(介助に協力してくれて)ありがとう」とお礼を言うのは介助者。
 お礼を言われれば、どちらのサービスも「介助する側(のために)」という発想から生まれたものだと知れます。同じ条件が揃っていても、感じる違和感をやり過ごし続ければ、他律に支配されることを受け入れる生活になります。意識の持ちようというのは結構重要なことです。

p.35 10.「絶対絶命の」出入り口


 これが、絶対絶命の出入り口です。

ガードレールのブランクのド真ん中に自転車侵入防止柵が設けられていて、
そのすき間は50センチ以下、さらに階段が二〜三段あります。

これは、公園の“絶対絶命の”入り口。
人がかろうじて通れるくらい(30センチ程度)の間をあけて
自転車侵入防止柵が三列に設けてある。
階段がないタイプ。しかし
階段がなくても間が狭ければ通れない。
しかも肝心の自転車は通過できてしまう。

 公園の入り口などにも、車いすユーザーが絶対入れないすき間の狭い柵が設置されていることがあります。ハルが幼く、自分も若く血気盛んなころは「いっそ “車いすお断り” って立て看板用意をしな!それができないないなら柵を外せ」なんてケンカを売っていました。

 すべては「自転車の侵入を防ぐため」。それこそ、立て看板ひとつで済む話ではありませんか。公共の、一般の人の知性を疑いすぎではないかと情けなくなってしまいます。

 絶体絶命の出入り口がスロープになった後はこうです。自転車侵入防止柵と階段に「子どもの飛び出し防止の効果もあったのではという気づきから、注意喚起のための車両用のミラーと子どもたち向けの横断幕が張られました。


車両用のミラーと子どもたちに注意喚起するための「危険とびだし」の横断幕。
以前のスタイルが飛び出し抑止柵の役割も果たしていたのではないか
という気づきから、こうなった。


p.36 11.バリアフリー

 障害のある人・高齢の方などに対応するための建物の改修はバリアフリー、新築ならユニバーサルデザイン。この捉え方でこの言葉が用いられる場合がこの国では多いように思います。また、障害のある人・高齢の方などに配慮された環境づくりをバリアフリー、それに限らず、どのような人にとっても使い勝手のよい環境づくりをユニバーサルデザインというのだ、という説もありますが、どちらも正確ではないようです。

 バリアフリーという言葉が最初に用いられたのは、昭和491974)年、国連の障害者環境専門家会議の報告書「Barrier Free Design」を発表です。このレポートでは、それまでの建築物の設計基準が、標準的な身長や運動能力を持った架空の人(ミスター・アベレージ=男の人のみ!)を想定しそれに基づいて設定されて来たことが改めて指摘され、それゆえ想定外(障害があったり、子どもだったり、女の人だったり!)の人にとって使いづらいものであることの問題について書かれています。このレポートは、その後「国連障害者の10昭和58(1983)年〜平成5(1993)年の間に各国の障害のある人に関連した施策に影響を与えました。

 この国では平成6(1994)年のハートビル法(高齢者・障害者が円滑に特定建築物の建築の促進に関する法律)成立がそれに当たるのだと思います。

 環境のバリアフリー(交通アクセシビリティ)に着眼したバリアフリー新法の出現までにはさらに12年かかりました。こちらはユニバーサルデザイン(p.185・脚注65参照)という考え方がもとになっています。

p.38 12.サラマンカ声明(宣言)

 当時のUNESCO(=United Nations Educational, Scientific, Cultural Organization)第七代事務局長、サラマンカ声明のフェデリコ・マヨール( Federico Mayor )による前文とそれに続く「ひとりひとりが必要とする配慮に対応できる(スペシャル・ニーズ)教育における原則・政策・実践に関するサラマンカ声明」を紹介します。
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前文
 平成6(1994)6710日、92の国の政府と、25の国際組織を代表する300名以上の人が、スペインのサラマンカという町に集まりました。学校が、すべての子どもたちが一緒に学べるように生まれ変わるにはどうしたらいいか、そのために国や組織は何をしたらいいかを考える会議に出席するためです。

 すべての子どもたちがいっしょに学べる学校教育を「インクルーシブ教育(万人のための教育)」といいます。 スペイン政府が、UNESCOと協力して開いたこの会議に出席したのは、国連と専門機関のほか、国際的な政府の組織、非政府の組織、資金を提供する団体の代表、教育行政の担当者、政治家、法律家、ほか専門家などです。

 会議では「サラマンカ声明ならびに行動の枠組み(Salamanca Statement on principles, Policy and Practice in Special Needs Education and a Framework for Action)」という条文が採択されました。そこには、学校が「万人のための学校」に生まれ変わり、そのことで教育がより効果的なものになること、そして、実現するにはどんな行動をとったらいいかが具体的に提案されています。

 「万人のための学校」の姿はどんなものでしょうか。そこでは、ひとりひとりの違いは個性として大切にされ、学びを応援してもらえ、ひとりひとりが必要とする配慮(スペシャル・ニーズ, special needs)があれば対応してくれます。だから、すべてのこどもが一緒に学ぶことができるのです。
 ひとりひとりが必要とする配慮(スペシャル・ニーズ)に対応できる教育の実現は、世界中のどの国にとっても大切な課題です。それぞれの国や地域でバラバラに進展させられるものではありません。「通常の(多くの子どもたちが当たり前に通っている)学校」が大きく生まれ変わることが求められていることから分かるように、教育分野全体にとっての課題、新しい社会・経済政策を形づくる要素のひとつだからです。

 この条文は世界的な合意として、個別に必要とする配慮(スペシャル・ニーズ)に対応できる教育のこれからの方向性について示しています。UNESCOは、この会議とこの声明にかかわることができたことを光栄に思っています。

 この会議に参加した人は、「万人のための教育」が「すべての人のため(for all)」――とりわけ、教育弱者されてきた、配慮の必要な人びとのためのものであることを念頭に、チャレンジし行動しなくてはなりません。

 未来というものは運命で決まるのではありません。われわれの価値観・思考・行動によって変えられるものなのです。
 
これを読むすべての人びとは、それぞれ責任をもつ分野で、サラマンカ声明の提案を実践(じっせん)する努力をしてください。書かれた内容が、実効力のあるものになるように支援してください。

フェデリコ・マヨール


ひとりひとりが必要とする配慮に対応できる(スペシャル・ニーズ)教育における原則・政策・実践に関するサラマンカ声明

 昭和23(1948)年の世界人権宣言(Universal Declaration of Human Rights)には、どんな人間でも教育を受ける権利があることがしめされました。そして平成2(1990)年、この権利をあらためて確認し、保障しようという目的で行われた「万人のための教育に関する世界会議(World Conference on Education for all)」では、ひとりひとりが、あらゆる違いを尊重(そんちょう)される権利が約束されました。

 平成5(1993)年には、国連(United Nations)は、国連に加盟する各国に対して「障害のある人びとがひとしく機会を得るための原則(Equalization of Opportunities for Persons with Disabilities)」を示し、障がいのある人たちの教育を例外として扱うのをやめ、教育組織全体のこととして認識するように求めました。


 学校教育が、ひとりひとりの必要な配慮(スペシャル・ニーズ)に対応できるように生まれ変わること、それまで必要な配慮が得られないため同じ学校に通いなかった沢山の子どもたちが通えるようになること。それぞれの国の政府、支援グループ、地域社会や保護者の集まり、そして特に障がいのある人びとによるグループが、そのことに高い関心を寄せていることをとても心強く思っています。この世界会議においてたくさんの国の政府、専門機関、政府間組織の代表たちが積極的に参加していることが、その何よりの証拠です。


 わたしたちは、以下を宣言します。


① 92の政府と25の国際組織を代表し、平成6(1994)67日から10日にかけ、ここスペインのサラマンカに集まった「ひとりひとりが必要とする配慮(スペシャル・ニーズ)に対応できる教育に関する世界会議」の代表者であるわれわれは、それぞれ必要な配慮を求める子ども・若者・大人が、通常の教育システムの中で共に教育を受けることが、緊急に必要であると認めます。

 そして「ひとりひとりが必要とする配慮(スペシャル・ニーズ)に対応できる教育についての行動のわく組み」を承認しました。それぞれの国の政府や組織は「万人のための教育」についてのわれわれの公約を、そこで決められたことや勧められている精神にのっとって実現していきます。
② われわれはこう信じ、かつ宣言します。
 ●すべての子どもは誰であれ、ひとしく教育を受ける基本的人権をもちます。  学習して、それを継続(けいぞく)するのは、基本的人権です。  
●すべての子どもは、それぞれユニークな存在です。ひとりひとり違う性質・関心・能力をもち、配慮が必要なことがあります。

教育システムは、このようにバラエティに富んだ性質や必要な配慮を前提にして計画・立案・実施されなければなりません。

必要な配慮を求める子どもたちも、皆と同じ通常の学校に通えなければなりません。学校は、子どもたち中心の教育学の枠内で、すべての子どもの必要に応じられるように生まれ変わらなくてはなりません。

このインクルーシブな普通の学校こそ、人種差別というあやまった態度に抗い、すべての人が自然に受け入れられる社会――すなわちインクルーシブ社会を築き上げるのです。「万人のための教育」を実現する一番の決め手は、たくさんの子どもたちにとって効果的な教育の提供を目ざすことです。このことは、教育システム全体の効率を高め、結果として運営する費用の負担を減らすこともできます。

③ われわれはすべての国の政府に、これらを求め・勧めます。


個人差や固有に持つ困難な条件にかかわらず、すべての子どもたちを含むことが可能になるよう、教育システムを改善してください。それ実現することを優先して、政策や予算をたててください。

インクルーシブ教育――すなわち、普通の学校の中にすべての子どもたちを受け入れる教育――の原則を、法律や政治の問題として取り上げてください。

モデルケース(demonstration project)を開発してください。また、インクルーシブ教育に関して経験をもっている国々と情報を交換することをうながしてください。

子ども・大人たちの必要とする配慮(スペシャル・ニーズ)の求めに応じるため、教育設備を計画、監視、評価する機関を設立していください。その機関は、それぞれ地域の実情にあわせて地域が参加できるものにしてください。

ひとりひとりが必要とする配慮(スペシャル・ニーズ)に対応できる教育について、その整備のための企画・決定のさいには、障がいのある人びとの両親、住まう地域社会、所属する団体の参加をうながしてください。

早くからニーズに気づき、相談にのることも、インクルーシブ教育そのものに関することと同じように重要なこととして取り組んでください。

●「教育システムを変える」ことについての教育のプログラムは、教師の就任の前であれ後であれ、インクルーシブな学校における、ひとりひとりが必要とする配慮に対応する(スペシャル・ニーズ)教育の整備を前提としてください。
④ われわれはまた、国際社会にこれらのことを要求します。

各国の政府は、国際協力計画や国際的基金機関――特に「万人のための教育に関する世界会議」のスポンサーであるUNESCO、UNICEF(United Nations Childrens Fund)、国連開発計画(United Nation Development Program)、世界銀行(World Bank)と共に「万人のための教育」の道を進むことを承認してください。そして、教育というものを考える上で不可欠な「ひとりひとりが必要とする配慮(スペシャル・ニーズ)に対応できる教育」の開発を支援してください。国連とその専門機関――ILO(International Labor Office)、WHOWorld Health Organization)、UNESCOおよびUNICEFは「ひとりひとりが必要とする配慮(スペシャル・ニーズ)に対応できる教育」の国際的な広がりにそなえて、より効果的な支援をするため協力とネットワークを強化してください。また、同じように技術協力にもよりいっそう力を注いでください。
「ひとりひとりが必要とする配慮(スペシャル・ニーズ)に対応できる教育」のためのインクルーシブな学校整備に必要な計画や備品、評価などにかかる費用のため国の支出の負担が増えたとき非政府組織(NGO)は、プログラムとサービス提供について、国との協力を強化し援助してください。

●国連において教育についての機関であるUNESCOは、「万人のための教育」についてのあらゆる話し合いにおいて「ひとりひとりが必要とする配慮(スペシャル・ニーズ)に対応できる教育」が取り上げられることを約束してください。


⑤ 最後にわれわれは、この会議を組織したことについて、スペイン政府とUNESCOに心からの感謝の念を表明します。そして、世界社会開発サミット(コペンハーゲン・平成7(1995)年)や世界女性会議(北京・平成7(1995)年)のような国際的に重要なフォーラムにおいて、この声明にともなう「行動のための枠組み」に、多くの関心が向けられるように努力することを要請します。

※英語による原文全文はこのあとに続く「行動のための枠組み」も含み、下記のURLに掲載されています。↓
Salamanca statement(英語原文)
http://www.inclusiefonderwijs.nl/documenten/salamanca.pdf
 “special needs education ”という言葉は、日本では「特別ニーズ教育」「特別な教育ニーズ」と訳されることが一般的で、これが日本で10年ほど前に“特殊教育から転換された「特別支援教育」という言葉のもとになっています。


 しかし、ここでいう「ニーズ」は「ともに教育を受けるために必要な配慮」のことを示し「スペシャル」は特別という意味ではなく「それぞれのとか固有のというニュアンスと読み取るのが妥当と思います。

p.42 13.ノーマライゼーション

 「可能な限り、障害のある人も障害のない人と同じ環境で同じように普通の生活を送るようにすべきである」という意味で、1950年代デンマークの社会省の役人だったバンク・ミケルセンさんが提唱した言葉です。

 自由に外出できない、寝食とも集団で、……そんな知的障害(と呼ばれるもの)のあるひとたちが収容されていた大規模施設の劣悪な環境がナチスの強制収容所に酷似していると気づき黙っていられなくなったのは、自身レジスタンス活動から強制収容された経験のあるミケルセンさんにとってはとても自然なことだったと思います。改革を決意した後は、同時期に発足した知的障害者親の会の活動と意気投合して、この「ノーマライゼーション」をスローガンに掲げた法律「1959年法」を成立させました。


 1963年にはスウェーデン知的障害児者連盟のベンクト・ニーリエさんがこれを整理し「ノーマライゼーション」を「その社会のメインストリームの規範や形態にできるだけ近い日常生活の条件を知的障害のある人が得られるようにすること」と定義づけ、さらにそのために実現しなくてはいけないこととして「8つの原理」を提唱しました。
 
 すなわち、① 1日のノーマルなリズム ② 1週間のノーマルなリズム ③ 1年間のノーマルなリズム ④ ライフサイクルでのノーマルな経験 ⑤ ノーマルな要求の尊重 ⑥ 異性との生活 ⑦ ノーマルな生活水準 ⑧ ノーマルな環境水準、の8つです。これが米国に紹介されてから世界的に「ノーマライゼーション」という考え方が浸透していったようです。

p.43 14.きょうだい児のケア

 取り残されて苦しんでいる、病児のきょうだいたちの存在に注目し、日本で最初に「きょうだい児支援」に取り組んだのは、看護師の藤村真弓さんでした。

 生まれてすぐ入院・治療が続いたり、長い闘病生活が続いたりする赤ちゃんのために危機を乗り越えようと、たいがいの保護者は全身全霊、全力を注ぎます。そして夢中になるあまり、きょうだいである子のことがおざなりになったり、蚊帳の外にしてしまいがちです。そのような状況では無理ないことですが、しかし、きょうだいも保護者と同じように動揺しているのです。幼いなりに理由を求め「自分が悪い子のせいだ」と思い込んだり、新しい命に嫉妬する自分を責めたり……誰より心のケアが必要なのです。

 先天性(胎児期)水頭症も、まさしく生後入院・手術という流れが定番ですから、日本水頭症協会ができて間もないころに藤村さんと出会い「きょうだい児支援」の必要性を気づかせてもらったことは、本当にラッキーでした。

 藤村先生は、聖路加国際病院小児病棟婦長、沖縄県立看護大学助教授、茨城キリスト教大学看護学部教授を経て、現在、成増高等看護学校で教鞭をとられています。

 ほか、「きょうだい児支援」の活動については、障害のあるひとのきょうだい当事者の立場から自助グループ「きょうだい支援を広める会」を主催する有馬靖子さんがいらっしゃいます。
 有馬さんには、日本水頭症協会内に「きょうだい児支援」の活動サークルが誕生した平成182006)年から、ファシリテーターとしてご協力いただいています。


※参考資料
DVD「拡がる病児のきょうだい支援」(2014年・秀行企画)
藤村さんの15年の「きょうだい児支援」の取り組みから現場・家庭への提言。
問い合わせ先は、
秀行企画 
356-0056 埼玉県ふじみ野市うれし野2-10-2-208
TEL070-5541-3694(藤沢晶子)
E-MAILinfo@shukokikaku.com



※きょうだい支援を広める会のホームページはこちら↓

https://www.sibs-japan.org/lecture/arima